the beaten track とは、踏み固められた道。つまりは何時も使っている道。それに off をつける事によって、何時もと違う道を往こう、何時もと違う事をやろう! という願いを秘め日々頑張ってる訳です。
Posted by 甲子 - 2011.09.17 Sat 03:58:01
幸福とは自分自身の中に在る。
「幸福」とは、新明解国語辞典 第五版(出版 三省堂)(以下、国語辞典)によると以下のように定義されている。
『幸福 こうふく
現在の環境に十分に満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持を起こさないこと。また、その状態。しあわせ。』
十分に満足できる環境とは何であろうか?
傍からみると何不自由ない暮らしを提供されている者が多々いる。しかし、幸福だとは感じていない。他に目を向け、それ以上を望む。隣の芝は青いとはよく言ったものである。
環境を維持するために現代社会にはお金が不可欠である。では、お金を多く持つことが幸福であるだろうか? 答えは否。お金を多く持つことによって余裕が生まれるであろうが、それが幸福に直結するとは限らない。
ここで重要なのは他に目を向けるということである。他者との比較において幸福を計っている。つまり相対的に考えることが多い。しかし、人間以外の動物は比較する事がない。
動物にとっての幸福
自然に生きている動物と人間に飼われている動物。多くの人は飼われている動物は常に餌を与えられ、可愛がられる。対して、自然界に生きている動物は餌を自身の力で手に入れなくてはならず、また常に外敵に襲われるかもしれないという環境で生きることになる。他にも様々な状況があるだろうが、往々にして飼われている動物の方が幸福であると考えられるだろう。だが、これはあくまでも人間の価値判断によって出された答えであり、動物達の考えではない。そして、それを知る由は人間にはない。せいぜい判るのが、動物達にもストレスがあるという事であり、それによっては死に至る可能性もある。なので、幸福かどうかを論じるのは難しい。難しいが、幸福の定義である環境に満足させることは出来る。しかしてやはり、あくまでも人間の定義による幸福という概念である。
そして、この概念が生まれたのが、動物と人間の一番の違いである脳みその発達。それによる知能あるいは感情の発達であると考えられる。
知能あるいは感情、そして欲求
欲求とは生物に遺伝子レベルで設定されている。生物が生きる上で必要不可欠だと言われる三大欲求を含めたものであるが、最低限種の生存、繁栄のために必要なのは三大欲求のみであり、それ以外の欲求も多々ある。それは脳の発達、知能や感情の発達であると考えられる。
幸福が人間が生み出した概念である以上、脳の発達により後に生み出されたと考えるのが妥当である。
知能と感情、どちらの発達によって幸福の概念が生まれたのか。これを明確に判別するのは難しい。国語辞典では『それ以上の気持を起こさない』『その状態』とあるように、それらは感情の領分である。しかし、それを明確な概念として認知するのは知能の領分である。よって、幸福が生まれたのは知能と感情、その二つの発達が上手く絡みあった結果に因る物である。
幸福の所在
今までの経験則で、外界からの刺激、他者からの刺激、そういったモノによって良い気分が味わえた。そういった事から、多くの人が外に幸福を求めて彷徨い、幸福が何処かに在ると思い探し続ける。中にこそ在る物を外に見出そうとしても、当然在るはずもない。あくまでも、幸福を感じるのは自分自身なのだから。
現代は情報過多と言われる位に様々な外界の刺激に満ち溢れている。自分から進んで知ろうとしなくても、知る事になる。多過ぎてどれが正しいかも、必要かも判らない。次々と新しい情報が生まれては消えていく。
それらを受け取り、何かを感じる事ができないのであれば、それは無いのと同じである。むしろ、時間を浪費しているだけて、長くもない人生にとってただただ有害だ。
外界や他者からの刺激によって多々生まれるが故に、錯覚をおこすが、感情は自動的にして自発的なものである。人間は幸福を感じ、それが幸福であると認知する。
幸福を求めて外を彷徨い続けるよりは、自分自身にとって何が必要で、何が好きなのか、何を求めているのか。そういった事を心穏やかに静かに見つめ直し、自分自身を知る。そして、自分自身には何が出来るのか。どういった人生を歩みたいのか。何が自分にとって幸福なのか、という幸福の所在、在処を見つける事ができるのだ。
須らく、幸福は自分自身の中に在る。
以上の論文紛いのモノを、以前大学の学科であった懸賞論文に投稿した。
ゼミで懸賞論文を書く事必須と先生に言われ、面倒だからやらなくても良いかと思った。しかし、やらずに投げたら周りの学生連中にずるいとか言われたりと面倒な事になると思い、〆切前日に書きあげたのを覚えている。
結果的に僕だけしか投稿しなかったというね。あれはびっくりしたw
人がやらなかったりするとごちゃごちゃ五月蠅いくせに、自分がその立場になるとなんもないというね。なんだかなーと思いつつもやはりどうでも良いやと思う自分がいた。
どちらかと言えば、先々を考えて言葉を口にしているのか? それともその時の感情に身を任せた発言なのか? それが気になるところではある。おそらく後者な気がするが。
いろいろな所でいろいろな事をしていると、「情けは人のためならず」の意味が良く判ってくる。間違えない者はいないし、失敗しない者もいない。最初からすべてを兼ね備えてる者も当然いない。誰しも最初は初めてなのだ。他者に対して当然という考えは持つべきではない……あっ、こういった考えも当然のように持っていてはいけないか?w
僕ももっと謙虚になり、常に心に鏡を持たないといけない。心の鏡は他者を写すと見せかけて、その実自分の姿を写す。もっと器の大きな人間になりたい。いや、人間というか僕自身になりたい。
はてさて、この歳になって人生の岐路に立っている。どんだけモラトリアムなのかと。
再度幸福というか、人生について考えさせられているのでとりあえず読み返してみた。
何か、薄っぺらだ。僕の人生並みに薄っぺらい。もっと濃厚にして重厚な人生を歩みたいものだ。
「幸福」とは、新明解国語辞典 第五版(出版 三省堂)(以下、国語辞典)によると以下のように定義されている。
『幸福 こうふく
現在の環境に十分に満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持を起こさないこと。また、その状態。しあわせ。』
十分に満足できる環境とは何であろうか?
傍からみると何不自由ない暮らしを提供されている者が多々いる。しかし、幸福だとは感じていない。他に目を向け、それ以上を望む。隣の芝は青いとはよく言ったものである。
環境を維持するために現代社会にはお金が不可欠である。では、お金を多く持つことが幸福であるだろうか? 答えは否。お金を多く持つことによって余裕が生まれるであろうが、それが幸福に直結するとは限らない。
ここで重要なのは他に目を向けるということである。他者との比較において幸福を計っている。つまり相対的に考えることが多い。しかし、人間以外の動物は比較する事がない。
動物にとっての幸福
自然に生きている動物と人間に飼われている動物。多くの人は飼われている動物は常に餌を与えられ、可愛がられる。対して、自然界に生きている動物は餌を自身の力で手に入れなくてはならず、また常に外敵に襲われるかもしれないという環境で生きることになる。他にも様々な状況があるだろうが、往々にして飼われている動物の方が幸福であると考えられるだろう。だが、これはあくまでも人間の価値判断によって出された答えであり、動物達の考えではない。そして、それを知る由は人間にはない。せいぜい判るのが、動物達にもストレスがあるという事であり、それによっては死に至る可能性もある。なので、幸福かどうかを論じるのは難しい。難しいが、幸福の定義である環境に満足させることは出来る。しかしてやはり、あくまでも人間の定義による幸福という概念である。
そして、この概念が生まれたのが、動物と人間の一番の違いである脳みその発達。それによる知能あるいは感情の発達であると考えられる。
知能あるいは感情、そして欲求
欲求とは生物に遺伝子レベルで設定されている。生物が生きる上で必要不可欠だと言われる三大欲求を含めたものであるが、最低限種の生存、繁栄のために必要なのは三大欲求のみであり、それ以外の欲求も多々ある。それは脳の発達、知能や感情の発達であると考えられる。
幸福が人間が生み出した概念である以上、脳の発達により後に生み出されたと考えるのが妥当である。
知能と感情、どちらの発達によって幸福の概念が生まれたのか。これを明確に判別するのは難しい。国語辞典では『それ以上の気持を起こさない』『その状態』とあるように、それらは感情の領分である。しかし、それを明確な概念として認知するのは知能の領分である。よって、幸福が生まれたのは知能と感情、その二つの発達が上手く絡みあった結果に因る物である。
幸福の所在
今までの経験則で、外界からの刺激、他者からの刺激、そういったモノによって良い気分が味わえた。そういった事から、多くの人が外に幸福を求めて彷徨い、幸福が何処かに在ると思い探し続ける。中にこそ在る物を外に見出そうとしても、当然在るはずもない。あくまでも、幸福を感じるのは自分自身なのだから。
現代は情報過多と言われる位に様々な外界の刺激に満ち溢れている。自分から進んで知ろうとしなくても、知る事になる。多過ぎてどれが正しいかも、必要かも判らない。次々と新しい情報が生まれては消えていく。
それらを受け取り、何かを感じる事ができないのであれば、それは無いのと同じである。むしろ、時間を浪費しているだけて、長くもない人生にとってただただ有害だ。
外界や他者からの刺激によって多々生まれるが故に、錯覚をおこすが、感情は自動的にして自発的なものである。人間は幸福を感じ、それが幸福であると認知する。
幸福を求めて外を彷徨い続けるよりは、自分自身にとって何が必要で、何が好きなのか、何を求めているのか。そういった事を心穏やかに静かに見つめ直し、自分自身を知る。そして、自分自身には何が出来るのか。どういった人生を歩みたいのか。何が自分にとって幸福なのか、という幸福の所在、在処を見つける事ができるのだ。
須らく、幸福は自分自身の中に在る。
以上の論文紛いのモノを、以前大学の学科であった懸賞論文に投稿した。
ゼミで懸賞論文を書く事必須と先生に言われ、面倒だからやらなくても良いかと思った。しかし、やらずに投げたら周りの学生連中にずるいとか言われたりと面倒な事になると思い、〆切前日に書きあげたのを覚えている。
結果的に僕だけしか投稿しなかったというね。あれはびっくりしたw
人がやらなかったりするとごちゃごちゃ五月蠅いくせに、自分がその立場になるとなんもないというね。なんだかなーと思いつつもやはりどうでも良いやと思う自分がいた。
どちらかと言えば、先々を考えて言葉を口にしているのか? それともその時の感情に身を任せた発言なのか? それが気になるところではある。おそらく後者な気がするが。
いろいろな所でいろいろな事をしていると、「情けは人のためならず」の意味が良く判ってくる。間違えない者はいないし、失敗しない者もいない。最初からすべてを兼ね備えてる者も当然いない。誰しも最初は初めてなのだ。他者に対して当然という考えは持つべきではない……あっ、こういった考えも当然のように持っていてはいけないか?w
僕ももっと謙虚になり、常に心に鏡を持たないといけない。心の鏡は他者を写すと見せかけて、その実自分の姿を写す。もっと器の大きな人間になりたい。いや、人間というか僕自身になりたい。
はてさて、この歳になって人生の岐路に立っている。どんだけモラトリアムなのかと。
再度幸福というか、人生について考えさせられているのでとりあえず読み返してみた。
何か、薄っぺらだ。僕の人生並みに薄っぺらい。もっと濃厚にして重厚な人生を歩みたいものだ。
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